2023/08/04 00:33
十代の頃よく行くようになった喫茶店があった。
もう二十年も前の話だ。
ドアを開けるとカランコロンと音が鳴るいかにも絵に描いたような小さな喫茶店。
繁盛とは遠く常連のおじいちゃんがポツリポツリといるような店内。
不思議と居心地が良かった。
一人で切盛りしているおばあちゃんは溌剌としていてとても面倒見が良く優しい方だった。
僕はまだ高校生だったから特に可愛がってくれた。
カレーならいつでもあるからお金なんていらないわよと大きな目玉焼きを添えてよくご馳走してくれた。
その喫茶店の横には小さな画廊があった。
高校生の頃にはもう絵を描いていたから気になって聞いてみると、そのおばあちゃんの持ち物で昔から絵が大好きだと言っていた。
いつか旦那さんと二人で老後は小さな喫茶店と画廊をやりたいと建てた場所だったそうだ。
今は一人となり喫茶店の切盛りだけで、画廊はずっと閉じたままの状態だった。
それでも路面に向けて見えるガラス張りのスペースには鮮やかな花の水彩画が飾ってあった。
喫茶店には週に二回ここを訪れる司さんというおじいさんが居た。
直ぐ近くのアパートに一人暮らしで、ヘルパーさんに付き添われて散歩をする時の通り道だったようだ。
自然と司さんと話をするようになり彼も絵を描いている事を知った。
ジャズが大好きで、昔はサックスを仕事にしていたそうだ。
ある日、司さんがどんな絵を描くのか気になったので彼の家に遊びに行く事にした。
おじいさんの一人暮らし、そこは「好き」が詰まった正に小さなお城だった。
積み上がったレコード。
司さんが昔吹いていたと言う何とも風格のあるサックス。
そして床に散らばった広告やメモ用紙に描かれた絵、絵、絵。
単純な線だけど一切の迷いがなく気持ちの良い絵だった。
とても興味深かったのは、彼は同じ絵を何枚も何枚も描く。
段々手が慣れてきた時ようやく肩の力が抜け、これだっと思える線に出会えるのだそうだ。
こんな物しかないけどと粉にお湯を注ぐインスタントのコーヒーを淹れてくれた。
それがびっくりする程不味くて笑った。
「見て貰う人がいるわけではないけど、俺も一度くらい壁に絵を飾ってみたいなぁ」
そんな風にしみじみ語る彼に僕は迷いなく、手伝うからやってみようよと話すと子供のように喜んでくれた。
おばあちゃんも、快く受け入れてくれて展示が本当に楽しみになった。
お金はないから百円ショップの額縁を搔き集めて作品を選んで、そんな時間がとても楽しかった。
そして、いつも相変わらず不味い珈琲を淹れてくれた。
司さんは「俺は死んだらアンドロメダへ行く」と言っていた。
それは地球から遠く離れた星で、争いがなく美しい自然と芸術家のたくさん居る理想の星なんだとよく話してくれた。
自分は元々その星の住人で、いつか帰るんだと。
飾る作品を全て額に入れ、やっと展覧会の準備が整った。
後は画廊の壁に飾るだけ、そんな矢先に司さんが倒れた。
老人の一人暮らし、無理もなかったんだろう。
病院のベッドで横になる司さんに、後は僕とおばあちゃんに任せて早く元気になってねと伝えると力なく笑ってくれた。
搬入も終わり綺麗に飾り、照明も決まり後は司さんが来るのを待つだけだった。
だけど、司さんが来ることはなかった。
初日の朝彼はまるで満足したかのように、画廊に訪れる事なく旅立っていった。
想いを紡いだ作品を残して。
不思議な出会い。
風のように現れそして去っていった友人。
高校を卒業すると生活も変わり自然と喫茶店への足も遠のき、久しぶりに訪れた時には喫茶店も画廊もなくなっていた。
ずっと気になっていたけど、偶然にもおばあちゃんと会う機会があった。
さすがに体がきつくなってきたから閉める事にした、ずっと自分でも絵を描きたかったからこれからは描いてみる、元気そうにそう話してくれて僕は心の底から感謝した。
時々星を見上げては思う。
司さんは本当にアンドロメダの住人だったんだなと。
そして、この出会いも僕の作品のルーツの一つなんだと。
今頃彼はアンドロメダでサックスを吹き絵を描いているのだろうか。
もしいつか僕もその星に行けたならまた一緒に不味いコーヒーを飲みたい。